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高知地方裁判所 昭和36年(ワ)286号 判決 1969年4月25日

原告 国

訴訟代理人 叶和夫 外三名

被告 田中外二 外二名

主文

別紙目録記載の土地につき、原告が所有権を有することを確認する。

訴訟費用は、被告及び引受参加人らの負担とする。

事実

原告指定代理人は、主文同旨の判決を求め、その請求の原因として次のとおり述べた。

「一、(一) 土佐藩は、寛文年間に、藩有林野管理制度の一つとして、御留山と称する制度を制定してこれを施行し、その後天和三年頃土佐藩中の御山改が命ぜられ貞享元年右調査を終了し、その際「御留山改帳」が作成された。

(二) 右「御留山改帳」によると、別紙目録記載の土地(以下単に本件土地という。)は、右御留山の一つであつて、その位置を、東は奥白髪山立川山両方之大畝限、南は奥白髪谷坂瀬谷落合限、西は坂瀬之谷限、北は坂瀬之畝限と四至榜示(古来から伝承され固定化した峰筋(畝)谷筋(川)をもつて、境界を示す方法)され、竜王山の一部として土佐藩の所有に属していたものということができる。

(三)しかして、原告は、明治二年六月一七日太政官沙汰をもつてなされた版籍奉還により、右御留山竜王山の所有権を土佐藩から承継取得したのであるが、右御留山竜王山は、土地台帳上、長岡郡本山町大字七戸字竜王山第九四四番山林六八〇町九反九畝一〇歩(六七五万三六五二平方メートル)(以下、単に九四四番山林という。)として表示されているので、本件土地は右九四四番山林の一部に属するものである。

二、仮に、右主張が認められないとしても、明治二七年頃から高知大林区署により、竜王山国有林等を対象として実施された官林境界査定処分(以下単に本件査定処分という。)の結果、明治三三年三月二日をもつて、本件土地は、原告の所有に属することに確定したものである。

即ち、

(一)  一般に、官林境界査定処分は、訴願法(明治二三年法律第一〇五号)第一条弟五号、行政庁の違法処分に関する行政裁判の件(同年法律第一〇六号)第五号、大林区署官制(明治一九年勅令第一八号)及び官林境界踏査内規(明治二三年農商務省訓令第三七一号)等にもとづき行なわれるもので、行政処分としての効力を有し、また本来国有林野の範囲を確定する目的で設けられたものではあるが、その処分は単なる境界線の確定に止まらず、所有権の確定をも伴なうものであつて、処分の結果、民有地所有権の全部又は一部の喪失を来たす場合も存するものであるところ、本件査定処分は、次の各段階をもつてなされた。

(1)  明治二七年頃営林主事補坂本左近により踏査が始められた。

(2)  明治二九年度から右坂本及び営林主事補押川唯五郎により、実測が始められた。

(3)  明治三〇年九月右実測の結果にもとづき実測図面が調製された。

(4)  明治三一年一一月一五日実測図簿に調印のため出張命令が出された。

(5)  明治三三年三月二日全隣接土地所有者の署名の存する請書が徴取された。

(二)  しかして、本件査定処分中本件土地に関してなされた手続は次のとおりである。

(1)  明治二八年八月頃から、右坂本が実測員となり、実地に臨み踏査実測がなされた。

(2)  しかして、右踏査実測は、まず隣接民有地の地番、地目、所有者等が明らかにされた後、右所有者の委任にもとづき立会権等の代理権限を有する訴外高橋孫助、同徳弘利吉並びに森林監守訴外川村通照及び吉野村長訴外川村壮郎の立会のもとになされた。

(3)  右踏査実測の方法は、右立会人の同意のもとに官民地の境界となるべきところに測点を定め、各測点間の角度及び距離を実

測し、右各測点の表示には立木又は角杭を使用してなされたものである。

(4)  右踏査実測の結果にもとづき、右立会人の署名押印を得て、他の境界査定処分の結果と共に、城ノ尾山外一〇箇山官林境界図及び同境界簿が作成された。

(三)  <省略>

三 以上のとおり、本件土地は原告の所有に属するものであつて、明治九年頃から、原告により一等官林として、斫伐植栽手入刈り蔓切り除材等を施行して管理経営されて来たものである。」

しかるに、被告らは、本件土地が長岡郡本山町大字七戸字竜王山第九四五番山林六反五畝歩(六四四六平方メートル)と表示される民有地であつて、被告らの所有に属することを主張し、原告の本件土地に対する所有権を争うので、本訴請求に及んだものである。

被告訴訟代理人及び引受参加人ら訴訟代理人は、いずれも本案前の答弁として、「本件訴を却下する。」との判決を求め、その理由として、

「一、本件土地は、土地台帳法及び不動産登記法第三六条の趣旨により、所在の町村及び土地の番号、地目の記載を要するものと解すべきところ、原告の本訴請求の趣旨記載は、この点において不動産の特定を欠き、遂には執行不能の請求に該当するものというべきであるから不適法である。

二、仮に右主張が理由がないとしても、原告の主張によれば九四五番山林が存在しないことになり、その結果右土地に関する土地台帳、同付属図及び所有権取得登記はいずれも無効に帰することになつて、抹消手続を余儀なくされる。又仮に右土地が右付属図表示の場所以外に存在するものとすれば、今度はその場所の地番及び登記の抹消手続を必要とすることになる。従つて、原告としては、本訴提起に先立ち、土地台帳、同付属図及び所有権取得登記の各抹消手続請求訴訟を提起すべきものというべきであるから本訴提起のみによつては、本件土地の所在地番が確定せず、また右九四五番山林の所有権取得登記も抹消されないので、本訴は訴の利益を欠くものとして不適法である。

三、仮に以上の主張がいずれも理由がないとしても、本訴請求が認容され、被告ら主張の右九四五番山林の位置が九四七番の二ないし四山林の位置に該当するものと判断されることになると、土地台帳、同付属図は更正を必要とすることになる。ところが、右更正をするには、右九四七番の二ないし四山林の各所有名義人の承諾を要するのに、これらの承諾が得られないことは明らかであるから、結局、本訴の判断に当つては、本件土地を九四四番山林の一部と認めることのほか、右九四五番山林及び九四七番の二ないし四山林の各位置をも併せて判断しなければならず、従つて、本訴は合一確定の必要ある必要的共同訴訟に当るものというべきであるから、原告としては、右九四七番の二ないし四山林の各所有名義人をも共同被告としこ、これらに対し、地番更正又は抹消登記手続請求をも併合して提起すべきであり、これらを共同被告としていない本訴は不適法であるといわなければならない。

と述べ、

いずれも、本案について、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因に対する答弁並びに主張として、

「請求原因一の事実中、本件土地が土佐藩の御留山としてその

所有に属していたものであり、藩籍奉還によつて、原告の所有となつた事実は否認する。原告が御留山として主張する龍王山には、御留山のほか多くの民有地が存在していたものであつて、本件土地は、江戸時代においても伐畑として山内藩台帳から除外されており、明治二六年三月八日第九四五番山林六反五畝歩(六四四六平方メートル)、山下勘吾外六名の共有地として登記されるに至つた民有地である。

請求原因二の事実は全部否認する。官林境界踏査内規にもとづく境界踏査は、官林境界測量内規(明治二三年農商務省訓令第五〇九号)第一条但書から考え、同年一二月以降実施される筈はないから、本件査定処分は不適法である。仮に、本件査定処分が適法に行なわれたとしても、それは原告主張のとおり、訓令にもとづいてなされたものであるから、行政処分としての効力を有しないものというべきであつて、右処分により、所有権の確定又は他所有権の全部又は一部の喪失を伴なうものということはできない。また、本件査定処分の結果、被告らが九四五番民有地として主張する本件土地が九四四番に編入され、本件土地に対する民有地所有権の喪失を来たすものとすることは査定処分の目的を超えるものであつて、本件査定処分は当然無効というべきである。更に、本件査定処分には、調印命令の指定期間内に調印がなされていない違法があり、又査定時において設置すべき標石の設置を欠く違法がある。

請求原因三の事実中、明治年間において、原告が本件土地につき、伐採、植林その他の管理経営をなしたこと及び被告らが、本件土地を九四五番と表示される民有地であつて、被告らの所有に属することを主張して原告の所有権を争つていることはいずれも認めるが、その余の事実は否認する。」と述べ、抗弁として、

「仮に、本件査定処分により、原告において、被告らが九四五番民有地として主張する本件土地の所有権を取得したとしても、右所有権取得は、本件査定処分により形成的になされるものであつて、権利の得喪変更を伴なう物権変動の一場合に該当するものと解すべきであるから、被告らは、いずれも九四五番の持分登記名義を有する者として、右所有権取得につき、対抗要件の欠缺を主張し得べき第三者に該当するものである。」と述べた。

原告指定代理人は、抗弁に対し、

「一般に、官林境界査定処分は、官有地と民有地の境界を処分どおりに遡及的に形成するものであるから、同査定処分の反射的効果として、場合により、民有地所有権の全部又は一部が当然に喪失するに至るものと解すべきである。従つて、本件査定処分の結果、本件土地の所有権が原告に帰属するものと確定したとしても、それは物権変動の一場合には該当しないものというべきであるから、被告ら主張の抗弁は失当である。」と述べた。

〔証拠省略〕

理由

第一、本案前の主張に対する判断

一、被告らは、本訴請求が、不動産の特定を欠く旨主張するので、案ずるに、権利の対象たる土地(係争土地)を特定するためには、通常、当該土地の地番、地積等をもつて表示し、当該土地が一筆の土地の一部である場合には、地番、地積のほか、図面などを利用し、当該土地の範囲が現地において明らかになるよう基点を明確にし、方位、角度、距離等を示す必要があることが多いであろうが、仮に、当該土地につき、地番等が表示されていなくても、他の方法により、現地において、当該土地の識別が可能であれば、請求の特定としては、必要且つ十分である。そこで、これを本件についてみるに、本訴請求の趣旨によれば、本件土地は、別紙図面を利用し、右図面中原告主張の1から54。A59から85。92から131の各地点を経て1を結ぶ線で囲まれた範囲内の高知県長岡郡本山町大字七戸字龍王山の山林一二一町三畝一歩(一二〇万〇三〇〇平方メートル)と解しうるから、それは、現地において十分に他と識別することが可能であつて、本訴請求には何ら特定に欠けるところがない。従つてこの点に関する被告らの主張は失当である。

二、次に、被告らの、本件訴訟が訴の利益を欠く旨の主張につき検討する。

本件訴訟は、要するに、原告において、本件土地が九四四番山林の一部であつて、原告の所有に属する旨主張するのに対し、被告らは、本件土地が九四五番山林に該当すると主張してこれを争つているものであるから、本件訴訟は結局、特定の土地について所有権の存否の確認を求める訴の利益を当然有するものというべきである。従つて、被告らのこの点の主張は、独自の見解にもとづくものであつて、採用することができない。

三、そこで、更に進んで、被告らの必要的共同訴訟の主張につき判断するに、本件訴訟が本件土地所有権の確認を求めていることは、右判示のとおりであつて、原告としては、本件土地に対する原告の所有権を争う被告らを相手方として、訴訟を提起すれば足りると解すべきところ、九四七番の二ないし四山林の各土地所有名義人との間においても合一に確定すべき必要性は何ら存しないから、これらの者をも共同被告にすべきであるとの被告らの主張は、これまた独自の見解にもとづくものであつて、到底採用することができない。

第二、本案に対する判断

一、土佐藩が寛文年間に、藩有に属する山林の管理制度の一つとしていわゆる御留山制度を制定し、これを施行していた事実、右御留山の一つとして、その位置を東は奥白髪山、立川山両方之大畝限、南は奥白髪谷坂瀬谷落合限、西は坂瀬之谷限、北は坂瀬之畝限と四至榜示されていた龍王山が存した事実、明治二年六月一七日太政官沙汰をもつてなされた版籍奉還により、右御留山龍王山の所有権が土佐藩から原告に承継された事実及び右龍王山は土地台帳上九四四番山林六八〇町九反九畝一〇歩(六七五万三六五二平方メートル)として表示されている事実は、いずれも被告らにおいて明らかに争わないからこれを自白したものとみなす。

二、そこで、本件土地が、右御留山龍王山の一部として右九四四番に属するものかどうかについて検討する。

(一)1、 <証拠省略>綜合し、弁論の全趣旨をも併せ考えれば、旧長岡郡吉野村は、昭和三一年本山町に合併されたが、合併により同村役場から同町役場に引継がれた書類中に、一筆限絵図面帳なるものがあつて、これは同村を構成していた一三部落に関する土地図面というべきもので、その内の一つに七戸部落に関する七戸村一筆限絵図面帳(以下明治二〇年図面帳という)が存したこと、同図面帳は、長岡郡七・戸村在住の図面師山下亀吾が実地調査の結果にもとづいて製図作成したもので、明治二〇年一二月三一日同村地主惣代山下多七、同高橋覚次、同郡汗見外一三ヶ村戸長長野達太郎の三名が、相違ないものとして連署の上高知県知事田辺良顕宛に提出したものであること、右図面帳の中には、本件土地を含む「九〇番龍王」の図面(甲第五号証に同じ。以下甲第五号証図面という。)が存在し、同図面によれば、本件土地は、九四四番山林の一部に属するものとして扱われていること、同図画は、作成後同郡吉野村七戸の昭和五年七月土地図面帳(以下昭和五年図面帳という)中の「九〇番字龍王山」の図面(乙第二号証に同じ。以下乙第二号証図面という。)が作成されるまでの間、同村役場備付の公の図面として、行政事務処理の上においても使用されて来たこと、ところで、明治二〇年図面帳は、作成後多年を経過して、汚損破損等により著しく不鮮明となつたため、公務処理の上にも支障を生ずる可能性がでて来たことから、昭和五年頃、当時同村助役で土地関係の事務を担当していた川村梅吉が中心となり、当時の高知税務署構内において執務していた代書人某に依頼して、右図面帳全部を書替えることになつたこと、代書人某が同図面帳を書替えるに当つては、同図面帳を使用せず、同税務署に土地台帳附属図面として備付けられていた長岡郡七戸村一筆限絵図面帳にもとづいてこれを移記するという方法によつてなし、右書替えは昭和五年七月に完成されたが、右移記による図画帳が、即ち、昭和五年図面帳であつて、以後同図面帳が公の図面帳として、同村役場に備付けられ使用されて来たこと、同図面帳中の乙第二号証図面は、甲第五号証図面と若干相違する個所があり、甲第五号証図面では本件土地が九四四番山林の一部として扱われているのに、乙第二号証図面では九四五番畑と表示されており、更に甲第五号証図面の九四五番伐畑と表示されている個所は、乙第二号証図面では九四七の二ないし四として表示されており、甲第五号証図面には右九四七の二ないし四と表示される個所は存在しないこと及び明治二〇年図面帳は昭和五年図面帳作成後は、古文書的存在として、同村役場及び前記合併後においては本山町役場に保管されて来ていること、以上の各事実が認められる。

次に<証拠省略>によれば、高知地方法務局本山出張所保管の吉野村七戸の土地台帳附属地図帳は、昭和二五年頃、台帳事務が登記所の所管事務とされると共に、高知税務署から同出張所の保管に移されたものであること、乙第二号証図面と同出張所保管の右土地台帳附属地図帳の中の九〇番龍王山に関する図面(甲第四号証(但し、「九百四十五」の記載を囲む部分を除く。)に同じ。以下甲第四号証図面という。)とはほぼ同一であることがそれぞれ認められる。

2  そこで進んで甲第五号証図面と甲第四号証図面ひいては乙第二号証図面のいずれが信用できるかについて検討を加えるに、まず、甲第五号証図面について見るに、前記甲第五号証ならびに文書の形態、内容等に弁論の全趣旨を併せ考え、<証拠省略>によると、甲第五号証図面が作成される以前である明治九年一二月二八日に地所改正にもとづいて作成された七戸村一筆限絵図面帳が存在し、その内の「九拾番龍王」と称する図面は、旧地番が書かれて朱抹してあるほか、九四四番、九四五番ならびに九四七番の関係については甲第五号証図面とほとんど同一であること、その後、明治一八年に至つて諭達第二号により、従来の地図等の誤謬の訂正がなされたが、九四四番、九四五番、九四七番の関係については何らの変更もなかつたこと、右絵図面帳の表紙には「他人ニ貸事拒絶」と記載されていること、明治九年改正にもとづく七戸部落全図と称する図面が存在し、この図面は、前記認定の明治二〇年図面帳の作成者山下亀吾が所有していたこと、そしてそれにも表紙に「他人貸事拒絶」と記載されていること、右図面には色彩がほどこされ、甲第四〇号証の三の図面中九四五番、九四七番に該当する部分は淡緑色で塗られているのに「九百四拾四官山」と記入された地域および本件係争地に該当する部分についてはいずれも濃緑色で塗分けられていることがいずれも認められ、他にこれを覆えすに足りる証拠はない。そこで、右認定の事実によれば、甲第四〇号証の絵図面帳および同第四二号証の二の図面は、いずれもおおやけの絵図面帳等を正写したものを個人が所有していたもので、これらは七戸部落の土地に関する紛争解決のために厳重に保管されていたものであることおよび甲第四二号証の二の図面中、濃緑色に塗られている部分は国有林を表示しており、本件係争地もまた国有林であることが、いずれも推認できる。

そこで、甲第四号証および乙第二号証各図面について考察するに、乙第二号証図面が前記明治五年に税務署の土地台帳附属図面にもとづいて書替えられたものであり、甲第四号証図面が昭和二五年頃土地台帳事務の法務局移管に伴ない、高知地方法務局本山出張所に保管替えになつたことは、前記認定のとおりであるが、乙第二号証図面が、甲第四号証図面にもとづいて作成されたものとは直ちにはいえないのであつて、甲第五号証の図面と甲第四号証図面とを比較対象して仔細に検討して見ると、甲第五号証図面には七四六番が一ないし三まで分けられているところ、右の分筆は、<証拠省略>によれば、昭和五年以前になされていることが明白であつて、一方甲第四号証図面には、同番が一ないし八に分筆され、しかも、同番の一の位置は、同番の四以下が分筆された結果、従前の同番の一に比すると、隅のごく一部に限られるに至つたが、若し、同番の四以下が分筆される以前に作成された図面であるならば、当然、右分筆に伴なつて、分筆前に書かれた同番の一の文字が朱抹された上、新たに同番の一が分筆後の位置附近に記載されるべき筋合いであると考えられる。ところが、右図面には、そのような朱抹の形跡が全く存しないところから推測すると、少くとも、同番の四が分筆された時に書改められたものとみるのが相当である。そこで、成立に争いのない丙第三号証の五によれば、同番の四が分筆されたのは昭和二〇年一一月二八日であることが明白であるから、右図面の作成はその頃であると推認される。従つて、乙第二号証が作成されるにあたつて基準にした図面は、甲第四号証図面そのものではないわけであつて、乙第二号証図面が準拠したところの税務署備付けの土地台帳附属図面は、結局、証拠上は明らかにされておらず、それの作成時期ならびにいかなる内容の図面であるかは必ずしも明確ではない。ただ、乙第二号証および甲第四号証の各図面が、右土地台帳附属図面に準拠したことから、或は同一内容のものであろうとの一応の推測は可能であるとしても、一面からいうと、その間に何らかの誤謬、誤記または作意が介入する余地が絶対にないとはいい切れないのである。この点甲第五号証図面については、前記認定のとおり、七四六番の一ないし三の分筆の時期が昭和五年以前である事実等からいつても、同年以降は分筆その他一切手を加えた形跡が認められないので、その当時のままに保管されているものということができる。

そこで、以上説示の諸事実を比較考量すると、甲第四号証図面および乙第二号証図面より甲第五号証図面の方が信憑性が大であるというべきである。

なお、乙第二号証図面が新たに実地調査をした上で、その結果にもとづいて作成されたとの事実については、証人川村英雄の証言の一部以外にはこれを認めるに足る証拠がなく、右証言は前記認定の事実に照らすとたやすく信用することができない。

(二)1、<証拠省略>を綜合すれば、次の各事実が推認できる。

即ち、山下勘吾、山下才次、山下覚吾、高橋定助、高橋達吾、高橋菊弥、高橋喜馬太(以下単に勘吾外六名という。)は、九四五番伐畑と九四七番山林をいずれも共有していたが、龍王山官林の境界査定処分が行われることになつたため、官林に接続する各土地所有者として境界査定処分に際し、査定の立会、請書の提出及び図簿証明の調印の各手続を必要とすることになり、高橋喜馬太、高橋達吾、高橋菊弥及び山下覚吾は明治二八年八月八日付をもつて川村五内を、更に、勘吾外六名は、同月一〇日付をもつて高橋孫助及び徳弘利吉を、それぞれ右各手続の代理人と定めたこと、本件土地を含む吉野村大字沢ヶ内坂瀬山及び大字七戸龍王川に関する境界査定は、明治二八年八月頃から明治二九年五月頃までの間に実施されたが、それには営林主事補坂本左近が測量員、森林監守川村通照及び吉野村長川村壮郎がいずれも立会員となつて、他に隣接地主の惣代として右高橋孫助、徳弘利吉及び川村五内の三名が立会したこと、同年六月頃右各代理人から査定に立会したが標杭建設につき異議がなく、境界図簿完成の節には署名捺印する旨を記載した請書を徴したこと、明治三〇年九月頃城ノ尾山外拾箇山官林境界図(うち第六片)及び同境界簿が作成されたこと、明治三一年一一月一五日頃から明治三三年三月二日頃までの間に営林主事岡晋が命を受けて右各立会員及び代理人から右境界図(うち第六片)及び境界簿に署名捺印を徴したこと、右調印については、明治三二年二月末までに完了の答申をなすべき旨期間の指定がなされていたこと及び右査定処分においては、本件土地は官林として取扱われており、九四五番伐畑及び九四七番山林は、いずれもその一部が本件土地に隣接することになつていること、以上の各事実が推認され、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

2、しかして、右事実によれば、右査定処分については、調印命令の指定期間内に調印がなされなかつたことが認められるが、指定期間の定めは担当庁である高知大林区署内部の便宜的訓示的処置にすぎないものと解するのが相当であるから、右指定期間の不遵守のみをもつて直ちに査定処分が違法であるということはできず、また、査定に当つては標杭が設置された事実も窺われるので、被告ら主張の如き標石設置を欠く違法があるものとも認められない。従つて、右査定処分は、本作土地を国有林として取扱つた上適法有効になされたものと認めるのが相当である。

(三)1、明治年間において、原告が本件土地につき、伐採植林その他の管理経営をなしたことは当事者間に争いがない。

2、しかして、<証拠省略>を綜合すれば、本作土地は、明治四二年頃から現在に至るまで高知大林区署、本山小林区署、高知営林局及び本山営林署において、二五及び二九林班として指定し、一部を天然生林、他を人工造林とする国有林として、植栽、補植、撫育、蔓切り、間伐、除伐等を施行し、或いは民間人の木材搬出等に当つては使用願を提出させた上、必要とする場所を使用させるなどして管理経営して来ていること、本件土地を高知大林区署が国有林として管理経営するに当り、民有地所有者との間において、境界につき、紛争等が生じたことはなかつたこと及び本件土地に隣接する民有地には三椏、楮等が植栽されていたが、本件土地には自然生の三椏等が生立したことがあるほか三椏等が植栽された事実はなかつたこと、以上の各事実が認められ、<証拠省略>他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(四)  以上(一)ないし(三)の各認定事実によれば、本件土地は、明治九年頃から九四四番山林の一部に屈するものとして扱われており、明治二八年頃から明治三三年三月頃の間に実施された官林境界査定処分においても、同様に官林として扱われ、更に明治年間から現在に至るまで一貫して国有林として管理経営されて来ているところであるが、右査定処分に対し、本件土地の隣接民有地の所有者等は、何らの異議も申立てず、明治年間以後の国有林としての管理経営の間においても境界につき全く紛争がみられなかつたことが明らかである。

(五)  そこで、前示一、の事実と右(四)の事実とを併せ考えれば、本件土地は、土佐藩時代において御留山(藩有林)の一つであつた龍王山の一部に属していたものであつて、版籍奉還によつて、右御留山龍王山の所有権が土佐藩から原告に承継されると共に、本件土地所有権も承継された結果、土地台帳上、九四四番山林として表示されているものの一部に属することになつたものと認めるのが相当である。

<証拠省略>中、右認定に反する部分は、いずれも究極には乙第二号証図面又は甲第四号証図面に根拠を求めるものであるところ、右両図面が直ちに信用することができないことは先に判示したとおりであるから、結局、いずれも信用することができないものである。

三、そうすると、原告の被告及び引受参加人らに対する本件土地所有権の確認を求める本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、すべて理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 安間喜夫 西尾幸彦 井筒宏成)

目録

一、高知県長岡郡本山町大字七戸字龍王山九四四番山林のうち、一二一町三畝一歩(一二〇万〇三〇〇平方メートル)

<以下省略>

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